偶然、タイミングが重なったようです。

今日1日だけで、芋づる式に写真展を巡りあるきました。自分以外の写真を観ることは、客観視のトレーニングにはもってこいです。

まずは、ソール・ライター展から始まり、(シュールレアリズムやキュビズムに影響を受けている感じ)

今森光彦氏の風景写真、

蜷川実花氏の独特な色づかいの花街を撮った写真展、

最後に、スポーツフォトフラファーたちによる羽生結弦展です。

これだけ観て感じたのは、見せ方次第で、写真は様々に印象を変えていくのだなということ。

撮影者の、ふとした一言が、作品により深みを与えていたりします。

表面的に、ただ綺麗だから、というだけでは弱いなぁ・・・というのも感じました。

伝えたい!という想い一つでも、表現によって、伝わったり、なんだこれ?と思ったりします。

また、基本的に、多色づかいは、よっぽどコントロールしないと難しいこと。

だこかで観たことあるような風景では弱いなー、なぜそれを撮ったか。思索のあとが見えるものが、

私は好きだなぁ。。。

 

創作、表現することについて

なぜ、表現したり創作したいのか、の根本の部分。

—–伝えたいことがあるから。

何を伝えたいのか、無しには表現することはできない。

 

ただ完璧を求めすぎると、そのことにとらわれ過ぎて、次に進めなくなってしまう。

今、表現している人でも、その時、その人にできる精一杯のものでしかなく・・・

人は時間とともに、決して一定ではない。細胞一つとっても、昨日には存在しなかった細胞が現れている。

不要なものは、毎日、排泄物として外に出している。

そうやって、身体も命を繋いでいる。

社会情勢だって、常に動いている。それなら、表現だって、どんどん変わっていくのは、自然なのでは?

 

完璧、って、どこか1点に何かを固定して、そこから動くことを許さないものなのかな?

相手からの評価を意識し過ぎた完璧性は特にそう流れがちだと思います。

 

表現する時って、そういう完璧性ではなく、今、自分自身にできることを、全て注ぎ込めたかどうか、相手からの依頼であれば、要望するもの通りだったか、などについての完璧性であるように、意識すると思うけど。。

感覚的に言えば、自分に主体性のある完璧さは、自分を、さらなる高みへ向ける動機になるだろうし、

相手の価値観の奴隷で、自分に主体性がない意味で、相手の求める完璧さをそれだと思い込むようでは、表現なんて、出てこないんだろうな、と思う。

 

「すべての人の期待に応えることは神仏でも不可能だ。というか、それをしてはいけないから神も仏も応えないのだろう。
人間だけがよくそれをやろうとして苦しむ。
自分の欲望は実現可能か反省することは、自分自身の願望に抑制をかけることではない。

他人の欲望の奴隷になっていないかを知ることである。」

— (名越康文)

 

 

答えがないのが当たり前なのに、全てに対して他人からの答えを求めてしまうからおかしくなっている。
他人の価値観の奴隷状態になっているのに自分の好きなことなんて見つかるはずがない。
まずは全て自己判断で決めていくという決断をする。
そこから1つずつ自分で判断を下していくしかない。

— (八木仁平)

 

そして、大切なことは、楽しむこと。

 

日本ではコンクールで良い成績を残す指導者が尊敬されるけど、 アメリカでは生涯を通じて音楽を好きでいられる生徒を育てる事が出来る指導者が尊敬される。

指導者って、そうあるべきだと思う。
–(野々村俊輔)

そんなことを感じた写真展巡りでした。

(まぁ、アメリカが全て良いとは思わないけど、比べて優れているなという点は取り入れれば良い、と思います)