古代の貢ぎ物輸送ルート
私が小さい頃、住んでいた高島市。
実は、「古代から北陸以北の貢物は、海上を敦賀に送り、琵琶湖を渡って京都に入るのが正式のルート」だったそうです。
「奈良や京都に近く、琵琶湖という湖上輸送ルートがあった近江の国は、都で必要とする大量の建築資材(材木など)や食料・燃料を供給する地と して非常に都合が良く、各種の物資の供給拠点として栄えた」とのこと。
今では、琵琶湖の北西部の不便なところの様に思われている高島市ですが、 古代から昭和の中頃までは、奈良や京の都、そして大阪や京都といった大消費地への物資供給拠点として、また物資の供給中継ルートとして非常に重要な役割を 担っていた歴史があります。
そうしたことから、この高島市には古代から近世に至るまでの様々の遺跡や文化遺産が沢山残っているのです。
高島市出身の高島商人は、近江商人のなかで最も早い時期から活躍した商人です。
東北地方で大きな勢力を持つようになりました。特に小野組と称した小野一族は南部藩の商権を一手に引き受けるようになり、明治維新後は新政府の公金出納に関わり、生糸貿易、製糸業、鉱山業など多方面で新政府の経済基盤を支えました。
百貨店の高島屋も高島商人の飯田新七が起こしたものです。
新七は、26歳の時、京都烏丸松原で米穀商高島屋を営んでいた飯田儀兵衛(近江国(滋賀県)高島郡出身)の長女、秀と結婚し婿養子となりました。
その後新七は分家し、近隣に妻秀と家を借り、古着と木綿を扱う店を始めます。
屋号は本家と同じ「高島屋」としました。1831(天保2)年正月のことです。
「三方よし」などで有名な、近江商人の学んだ学問、石門心学は、日本版CSRと言われています。現在に通じるビジネス思考を持っていたのでしょうね。
詳細については、またの機会に・・・
(参考サイト:レファレンス協同データベース、高島屋ウェブサイト)、
たくさんの名所認定持ち、日本の桜名所百選の一つ。
琵琶湖湖畔にある「海津大崎」の地形は、海津湾の東に波食によって突き出た岩礁地帯。春には樹齢50年以上、約600本のソメイヨシノが延々4kmにわたって桜のトンネルを作ります。
桜並木は、海津村による植樹に先立つこと5年前、当時滋賀県高島地方事務所に道路補修をする修路作業員として勤めていた宗戸清七(当時37歳、百瀬村(現・高島市マキノ地域)在住)が作業の合間に自費で購入した若木を植えたことに端を発するそうです。
そして、昭和11年(1936年)6月に “大崎トンネル” が完成したのを記念してマキノ町の前身である海津村が植樹したもの。(Wikipediaより)
駅前では臨時の販売所で、地元のお土産やお花見弁当を買うことができます。だだ、桜の季節は、朝晩冷え込みます。
路線バスの便は限られ、週末は交通規制が実施されます。車での通行は長浜方面のみ可能。最近は有名になっていますので、大渋滞、花見客の飛び出しにご注意ください。(歩道があまり整備されていないので、ベビーカーは危険そうです)。
駐車場所が限られるので、琵琶湖側から船やカヤックで愛でるのもオススメです。
駅前のレンタサイクルは、自転車台数が少ないので、朝一で借りること。それを逃すと、11時過ぎまでは皆さん使われているので、バス、自家用車か徒歩になります。
重要文化的景観
マキノの海津と西浜・知内の石積みのある水辺景観が認定されています。徒歩散策もオススメです。
快水浴場百選
また、マキノ駅から湖にまっすぐ歩いた突き当たりの、マキノサニービーチは、夏の季節には、遠浅で水がきれいです。
詳細はこちら。→ 高島市観光協会 (最新情報は必ずリンク先をご確認ください。)
兵庫県出身。関西の契約スタジオをメインに撮影を始め、現在撮影歴17年目です。
これまでに150組以上の新郎新婦の撮影、15冊以上のダンス雑誌への掲載、20公演以上のダンス・オーケストラの撮影経験を通じて、表情や動きの瞬間を捉えることに長けています。最近では、竹本祥乃監督の初長編映画「にしきたショパン」のロケ写真を担当しました。
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